東 明雅の連句 Q&A
不易流行のこれから(最終回)
不易と流行について、現代の連句実作の問題をからめてお話し下さい。
私は芭蕉の言う流行の句とは「軽み」の句であったろうと思う。「おくのほそ道」の旅あたり以後、晩年になればなる程、彼の「軽み」への指向は強くなり、元禄七年、西下の旅に江戸を出発する際、杉風・子珊・桃林・八桑と巻いた歌仙「紫陽花(あぢさゐ)や」の巻の「軽み」が、上方でも大評判であったことに彼は大よろこびした手紙を、杉風あてに出している。それを読むと、流行の実態と、それがやがては不易と化してゆく過程を想像出来よう。元禄七年、芭蕉歿後に刊行された「炭俵」こそ、まさに「軽み」が不易に昇華した記念碑と言うべきものであろう。
それでは、現代連句では不易と流行の関係はどうなっているのであろう。
現代連句を昭和四十五年頃、即ち連句復興が一時に盛り上ったころ以後と限定すれば、その中心となったのは、根津芦丈及びその門下であり、彼らは「芭蕉に帰れ」を旗印に、古い低俗な俳諧の余臭を峻拒し、その代わりに近代的詩精神を盛り込んで、付けと転じを重視した新しい連句を創り出して行った。
その概要は昭和三十六年の「この一路」、昭和四十年の「艸上の虹」、昭和四十四年の「むれ鯨」、昭和四十七年の「夏の日」、昭和五十年の「摩天楼」など、この派から出された作品集を見る事により、現代連句が辿った流行の一過程を指摘することが出来る。
ただ、明治以後、古い俳諧の伝統を脱して新しい連句を作ろうと考え、努力した人は高浜虚子・小宮豊隆・寺田寅彦・松根東洋城・野村牛耳・橋閒石・高橋玄一郎・林空華・岡本春人・窪田董・村野夏生など十指に余る。
このうち、野村牛耳は芦丈の最高の門人でありながら、同じ芦丈門の双璧とうたわれた清水瓢左が、「芭蕉に帰れ」一辺倒であったのに対して、芭蕉のわび・さびを否定し、古い式目・作法も不合理と思うものは遠慮なく抹殺、付けも大胆な前句と付句の距離の遠い空撓(そらだめ)の句を得意とした。勢い、彼の作品は極めて新しく、魅力的であった。
高橋玄一郎・村野夏生などは牛耳の熱烈なファンで、彼らはそれぞれ空撓を一歩進めた矛盾付・脱線付などを創案し、現代連句界に新しい流行を巻きおこしたのであった。
さらに言えば、橋閒石は平成四年に歿したが、彼は早くから独自の非懐紙連句というものを提唱する中に、自ら空撓的付けを流行させることになった。彼の歿後は門人の秋山正明・澁谷道などにより、一層この付け方が流行しているように思われる。
元禄時代の「軽み」の流行が、遂に不易となったのと考え合わせ、今目の空撓的付けの流行は何を生み出すのか注目すべき所である。
「猫蓑通信」第43号 平成13(2001)年4月15日刊 より