立花北枝
たちばな ほくし

生年:不詳
没年:享保3(1718)

「蕉門十哲」の一人。加賀(現石川県南部)金沢の刀研ぎ商。通称、研屋源四郎。庵号、鳥翠台・寿夭軒。元禄二年(1689)秋、「奥の細道」の旅の終盤に金沢を訪れた芭蕉に入門。芭蕉の金沢滞在中ずっと付き従う。その折、北枝の「馬かりて燕追行別れかな」を発句とする歌仙に一座した。

以後は芭蕉から文通による指導を受けたが、芭蕉が亡くなるまで再会の機会がなかった。短い「面々授受」を最大限に生かした師弟関係といえる。編著『卯辰(うたつ)集』など。

各務支考の北陸蕉風俳壇開拓に協力し、芭蕉の直弟子として重きをなした。後世、伊勢派の源流に擬せられたが、当時の「北方之逸士」という通称などからも、独自の門流を立てるといった名利には関心がなかったことがうかがえる。そのためか生年も伝わらない。これは当時の著名俳諧師としては異例だ。

北枝の発句

元日やたたみのうへにこめ俵
鶯や伝うて下りる梅の花
呼びにやる人も戻らずおぼろ月
菜の花のぼんやりと来る匂ひかな
橋桁や日はさしながらゆふがすみ

牡丹散つて心もおかず別れけり
鵜飼火に燃えてはたらく白髪かな
夏酒やわれも乗行火の車
さびしさや一尺消えてゆく蛍
翁にぞ蚊屋つり草を習ひける

馬かりて燕追行わかれかな
かまきりの虚空をにらむ残暑哉
さむしろやぬかご煮る夜のきりぎりす
川音や木槿咲く戸はまだ起きず
穂隠れや鳥追舟の棹の先

池の星又はらはらと時雨かな
木枯や更け行く夜半の猫の耳
仏めく石を見立つる枯野かな
渋柿にきつと日のさす寒さかな
傘(からかさ)の幾つ過ぎゆく雪の暮

和田希因
わだ きいん

生年:元禄1(1688)
没年:寛延3(1750)

加賀金沢の俳諧師。通称、綿屋彦右衛門。庵号、暮柳舎。十代のころ北枝から俳諧の手解きを受けたとされるが、それについて確実な資料は残っていない。

三十歳前後に、金沢を訪れた各務支考に入門。支考の死後は伊勢の麦林舎乙由(支考門の兄弟子)に師事し、芭蕉直弟子がみな亡くなった後の北陸俳壇の重鎮、伊勢派の一方の代表的宗匠として仰がれた。

芭蕉は伊勢への思い入れが強く、何度も訪れたが、伊勢は貞門の影響力が根強く、なかなか蕉風を定着させることができなかった。しかし没年である元禄七年(1694)に支考を伊勢に庵住させて以後、支考と現地出身の涼菟(伊勢神宮神官)、乙由(伊勢の御師)らとの協力で伊勢蕉門が形成された。支考は、亡くなる七年前、六十歳の亨保九年頃まで伊勢山田の十一庵を本拠地とした。その後故郷の美濃北野村に移って獅子庵を結び、六十五歳で盧元坊を獅子庵の後継者としている。

涼菟の神風館、乙由の麦林舎を合わせて伊勢派と呼ばれる。希因は乙由の麦林舎系で、その弟子には、麦水・二柳(じりゅう)・涼袋・闌更などが輩出した。希因の弟子のうち、二柳の系統は主として西日本で継承され、寺崎方堂、橋閒石、澁谷道などに至った。闌更の系統は蒼虬、芹舎などを経たのち、主として東日本で、馬場凌冬、根津芦丈、東明雅などに継承されて現代に至る。

支考にはじまる美濃派四世道統(支考の次の次の代)の五竹坊が「希因門五哲」の一人に数えられていることからも、伊勢派の出発点にあった美濃派との密接な関係が、十八世紀はじめのその頃まで続いていたことがうかがわれる。

希因の発句

妹がりの河辺出直す若菜哉
鴬のあかるき声や竹の奥
この路は馬糞に習へ閑子鳥
我が門(かど)に富士を見ぬ日の寒さかな
蜘の網かけて夜に入る木槿かな

高桑闌更
たかくわ らんこう

生年:享保11(1726)
没年月日:寛政10.5.3(1798)

加賀金沢出身の俳諧師。庵号、二夜庵・半化房(坊)・芭蕉堂など。金沢の商人。本名は高桑忠保または正保。暮柳舎和田希因に俳諧を学ぶ。三十代のなかばごろから俳諧に精を出し、蕉風復古に務める。芭蕉や蕉門俳人の句文などの資料を刊行し、独自の蕉風論を唱え、天明期の蕉風中興を担った一人。蕪村、白雄、暁台、蓼太と並んで「天明五大家」と呼ばれる。五大家のうち、蕪村と蓼太の二人は雪中庵嵐雪に由来する雪門派系、白雄、暁台、闌更の三人は伊勢派系。もともと伊勢という、当時としては都会的な土地に発祥した伊勢派は、このころ「田舎蕉門」を脱して京、江戸、名古屋、金沢などの都会を中心に発展し、一方支考系の美濃派は岐阜を中心に地方展開を主として、両者はかなり異なる道を辿るようになった。

闌更は天明三年(1783)に活動拠点を金沢から京に移し、京俳壇の中心となる。その実績により、晩年、二条家から花の本宗匠の称号を与えられた。編著『芭蕉翁消息集』『俳諧世説』、句集『半化坊発句集』など。代表句「枯蘆の日に日に折れて流れけり」によって「枯蘆の闌更」「枯蘆の翁」と呼ばれた。

闌更の発句

正月や皮足袋白き鍛冶の弟子
梅咲くや藪に捨てたる炭俵
あかねさす藪を出でけり春の水
けふははや忘れにけりな猫の妻
いざ行かん魂花に染まるまで

五月雨や一筋赤き沖の水
更け行くや螢地を這ふ町の中
蚊の声や昼はもたれし壁の隅
蝉の音も煮ゆるがごとき真昼かな
網もるる魚の光や夏の月

秋立や店にころびし土人形
長き夜や目覚ても我影ばかり
見おろすや霧に灯す十万家
秋雨に焚くや仏の削り屑
月ひらひら落ち来る雁のつばさかな

時雨るや角をまじへる野べの牛
立ち来るや雪降りかかる浪がしら
はしり炭用のなき身を驚かす
橋の霜誰が落してや炭二つ
啼きのぼりなきくだりつつ川千鳥

成田蒼虬
なりた そうきゅう

生年:宝暦11(1761)
没年月日:天保13.3.13(1842)

もと加賀金沢藩士で、弓術と馬術の達人。本名は成田久左衛門利定。庵号、槐庵・南無庵・対塔庵など。金沢で高桑闌更門の上田馬来に俳諧を学んだのち、京都で闌更に直接師事し、闌更の没後芭蕉堂二世を名乗ったが、そのことをめぐって闌更夫人と係争になり、最終的に対塔庵を名乗った。

芭蕉の炭俵調を志向し、天保俳壇の第一人者となった。天保元年(1830)に芭蕉堂の号を千崖に譲り、天保俳壇の重鎮として全国を行脚。八坂に対塔庵を結んで俳壇を引退。

桜井梅室、田川鳳朗とともに天保の三大家とされる。三大家のうち、蒼虬と梅室は闌更系の伊勢派、鳳朗は白雄の春秋庵系で、これも伊勢派系。このころから伊勢派系が蕉風俳壇全体の最大勢力となったことがうかがえる。

蒼虬には句集『蒼虬翁句集』などがある。

蒼虬の発句

ひとつづつものなつかしやけさの春
うつくしき手で銭をよむ花見かな
藪川やうら戸うら戸の梅のはな
いつ暮れて水田の上の春の月
菜の花にくるりくるりと入る日かな

五月雨や枕もひくき磯の宿
ゆく水の四条にかかるすずみ哉
せみ鳴や心に遠きひとしきり
真中に膳すゑてある暑さかな
夏の月むざと落たる野面かな

初秋や洗うて立てる竹箒
牛に物言うて出て行く夜寒哉
我たつるけむりは人の秋の暮
竹割れば竹の中より秋の風
井戸の名も野の名も知らず女郎花

寒月やありとも聞かぬ須磨の藪
散るほどのちからは見えず帰り花
行く雲の家より低き枯野かな
鈴鴨の虚空に消ゆる日和哉
五六間飛ぶや霰の網の魚

八木芹舎
やぎ きんしゃ

生年:文化2(1805)
没年月日:明治23.1.23(1890)

山城国(現京都府)八条村に生まれる。成田蒼虬に俳諧を学ぶ。庵号泮水園(はんすいえん)。幕末から明治初頭にかけての京都俳壇の権威として、二条家から花の本宗匠の号を受ける。編著『むさしろ』『蟹島俳諧集』『泮水園句集』など。

芹舎の発句

大切なはたけの夜也月に梅
のりの香や包みひらけば是も春
ふく風の中さえ見ゆる青田哉
なつかしき夜は秋にあり遠砧
名月や何にぬれたる垣の簑

馬場凌冬
ばば りょうとう

生年:天保13(1842)
没年月日:明治35.9.6(1902)

高遠(長野県伊那)の狐島に生まれる。本名は学之丞。庵号、呉竹園(呉竹亭とも)。呉竹亭の号は、祖父如萄から引き継いだもの。高遠内藤藩の藩校である進徳館に学ぶ。明治十年頃から、伊那の放浪俳人として近年注目を集める井上井月(1822~1887)と交流し、両吟歌仙、また凌冬の妻、那美女(なみじょ・なみめ)も加わった三吟歌仙などが残されている。『新編 井月全集』(井上井月顕彰会刊)に収録された井月関連の連句全六十七巻のうち、十巻に凌冬または那美女が同座している。

明治十三年、那美女とともに上洛、泮水園八木芹舎に入門し、芹舎のもとで一年半にわたり諸国の俳諧人と交流。明治十四年九月、円熟社を興す。翌四月から、九州、四国、北陸を行脚、地元の伊那地方でも多くの門下を育て、俳諧の普及につとめた。編著、『旅硯』『竹園随抄』など。

凌冬の発句

咲さうになつて間のあり福寿草
鳥も来ず風もまだ出ず朝桜
若鮎の見ゆるよ橋も高からず
粟の穂や雀がつけば又撓む
撫子や咲ぶりに名のあやまたず
梶の葉やもう戻り来る手習子
犬の子の葉先食ひさく芭蕉かな

妻の馬場那美女・嘉永5(1852)~大正12(1923)・も俳人で、円熟社の撰者。凌冬の片腕として俳人との交流につとめた。井月との連句では「まだら」「なみ」と名乗っている。

那美女の発句

隙間さへいとふ夜風や鴨の声
瀬音のみ友としてゐる夜寒かな

根津芦丈
ねづ ろじょう

生年月日:明治7.12.27(1874)
没年月日:昭和43.2.14(1968)

長野県伊那村山寺に生まれる。庵号、生花庵・抱虚庵・苧庵(からむしあん)。円熟社にて呉竹園馬場凌冬に俳諧を学び、凌冬の没後、凌冬・那美女夫妻の愛用した文台を那美女から譲られ、円熟社社長をゆだねられる。戦中戦後の激動期に、伊那町議会議員をつとめるなど、郷土の振興に尽くす。勲五等瑞宝章を遺贈される。

連句受難の時代に、松永蝸堂、増田龍雨、中村竹邨、寺崎方堂、橋閒石、清水瓢左など、「旧派」の系列に立つ全国の俳諧師と交流を重ねた。九十五年の生涯に卷いた連句は三千巻に及ぶ。九十歳の昭和三十九年一月に隔月刊の連句誌「山襖」(やまふすま)を創刊。以後昭和四十二年十一月まで自ら編集発行を続けた。高等教育を受けていないが、博覧強記、人格知性見識の衆に優れていたことを東明雅が伝えている。

昭和三十六年、八十七歳のとき、東明雅の招きにより信州大学で連句についての講演と実作指導を行い、それをきっかけに結成された信大連句会の月例会指導を四十二年六月まで続ける。信大連句会では、東明雅のほか、池田魯魚(雄一郎)、宮脇昌三、高橋玄一郎など、錚々たる顔ぶれが芦丈師の指導を受けた。信大連句会は松本市民にも開放され、市民の文芸活動の振興に寄与した。

芦丈の発句

路も水も曲りくねりて梅の峡
春屋嶋哀れハ永久に美しき
室広く湯槽も広く春ひとり
雲雀斜めに落つや夕日の陽矢の中
雛棚や伊勢の浜辺の貝なども

一葉浮き二葉のび蓮夏に入る
影涼し合歓の眠りのとく覚めて
戻るのは一つも見えぬ羽蟻かな
汽車遅々と暑さきざみてアプト式
鶏黍の林に続く夏野哉

秋風や痩せ田の畦の痩せ案山子
二羽居れど一羽はちさし秋の蝶
永き夜を何して更かす島の灯ぞ
山霧に知らで過ぎけり不破の関
雁寒し野は星明り霧明り

大仏のうしろに寒き入日哉
物書くや机代りの火燵板
浅間野や初雪にはや灰のふる
寒々と仏枯野に枯れ残る
冬うらら死に下手昼も寝てばかり