Q12

「文台引き下ろせば反故」と校合

「文台引き下ろせば反故」という言葉が連句にはあると聞きますが、校合というのは矛盾しないのでしょうか。また、作者名が入れ替わることがあるのはどう考えたらよいのでしょうか。

「文台引き下ろせば即反故也」とは、土芳の「三冊子」に出ている芭蕉の語です。もともとは許六の「篇突」に、誹諧は文台上にある中とおもふべし。文台をおろすと、ふる反故と心得べし」と書かれた芭蕉の言葉に依っています。土芳はややこれを転じて用いていますが、その意味は連句における創作と享受の一体化、すなわち一座の張りつめた気分の中で、連衆同士、あるいは連衆と宗匠の詩魂がはげしくぶつかりあう。この白熱した創作と享受の楽しさ、それが俳諧の生命で、一巻が満尾して文台から引きおろされた懐紙は、もはや反故にひとしい無価値のものだというものです。

しかし、この「座の文学」としてだけの連句がすべてかと思うと、そうばかりとも言えないので、これほど激しい言葉を吐いた芭蕉自身、決して使用ずみの懐紙を反故として破ったり、棄てたりせず、筆を加えて推敲・添削し、また、その作品を弟子たちが出版することも拒もうとしませんでした。これは座を離れた一つの文学作品としても俳諧を認める立場を取っていたもので、私どもも、一座の楽しみは楽しみとして、さらに、それを校合して、よりよい作品を残すようにしている次第です。これは連句という芸術に座の性格としての特性と、書かれた文学としての性格が共存している為です。

一座している時の作者はもちろん捌きと連衆ですが、出来上がった作品を校合するのは捌きですし、出来上がった作品の作者は捌きなのです。

それ故、捌きは、作品の一句二句を添削・加筆する権限はもちろんのこと、都合によっては、句を差しかえ、また作者名を変更することもできます。たとえば、元禄二年「おくのほそ道」の旅の第一作「秣おふ」の巻の名残の裏は、

ナウ
  1  今日も又朝日を拝む石の上    芭蕉
  2   米とぎ散らす滝の白浪     二寸
  3  荻の手の雲かと見えて翻り    曾良
  4   奥の風雅をものに書つく    翅輪
  5  珍しき行脚を花に留置て     秋鴉
  6   弥生暮ける春の晦日      桃里

ですが、これが2以下全く改められ、

ナウ
  1  今日も又朝日を拝む石の上    芭蕉
  2   殿つけられて唯のする舟    翅輪
  3  奥筋も時は変らずほとヽぎす   曽良
  4   噛まずに呑めと投ル丸薬    翅輪
  5  花の宿馳走をせぬが馳走也    桃雪
  6   ふさぐといふて火燧そのまま  翠桃

となっています。これはちょっと極端な例ですが、これも理由のあることでしょう。ことに月花の句主、あるいは出勝の場合、出句数の極端なアンバランスも直してよいのです。

「猫蓑通信」第12号 平成5(1993)年7月15日刊 より