猫蓑通信創刊号から43号まで連載された、東明雅によるQ&A方式の「質問コーナー」を再録しました。元の猫蓑通信の記事は資料庫のpdfファイルでも閲覧できます。
花の季についてお尋ねします。季寄せでは花は晩春となっております。入学という言葉は仲春になっており、花の後には使えないことになります。花の季と実際とのギャップはどう考えればよいのでしょうか。
ACCの教室では、皆さんが捌きができるようにご指導いただいておりますが、捌きの役割と意義、また捌きとして座るとき何が大事かについてお教えください。
付け合いで、「花の句」「月の句」が型通りに出てしまい、もの足りない時がありますが、連句における「月」「花」はどんな意義があるのでしょうか。
時事の句ということが言われますが、連句一巻の中でのこのような付句の意義、またどのようなことに気を付けて考えればいいのかをお教えください。
校合というのはどのような観点で行われるのでしょうか。また、お捌きによって作者名が変えられたりということもありますが、これはどのように考えたらよろしいのでしょうか。
連衆に恋句をお願いしますと、「恋は苦手です」、「あまりしたことがありませんので」と逃げられ苦労することがありますが、恋句はどのように詠めばよいのでしょうか。
連句を完成させたと言われる芭蕉が用いた形式はほとんど歌仙ですが、これは、連句美は歌仙形式に極まるということなのでしょうか。連句形式のあり方についてお教え下さい。
第三の作り方について、『三冊子』では「大付にても転じて長高くすべしとなり」とありますが、『去来抄』では正秀亭で脇句に合わない第三を出した去来が芭蕉に叱られています。矛盾するようですが、どう考えたらよいのでしょうか
七部集を読みますと、「雅」と「俗」が上手に織り込まれていると感じますが、現代の連句における「雅」と「俗」はどのようにとらえればよいのでしょうか。
井原西鶴は連句でも活躍した人のようですが、その魅力はどんなところにあるのでしょうか。また松尾芭蕉は彼についてどんな考え方をしていたのでしょうか。
新年の季語は連句の付合の上ではどのように扱えばよいのでしょうか。冬季の一部と考えるのでしょうか。独立した季語と考えるのでしょうか。
連句には「付け勝ち」と「膝送り」というやり方がありますが、それぞれどんな特徴があるのでしょうか。
根津芦丈先生と初めて出会われた頃の、芦丈先生のご様子や印象はどのようなものだったでしょうか。
連句は日本の優れた文芸であると分かっているつもりでも、実作になってくると色々なマンネリ化が気になります。どのような工夫をしたらよいでしょうか。
連句の席に臨む時はどのような準備をすればよいのか、心構えなどについてお教えください。