東 明雅の連句 Q&A
校合の意義
校合というのはどのような観点で行われるのでしょうか。また、お捌きによって作者名が変えられたりということもありますが、これはどのように考えたらよろしいのでしょうか。
校合というのは、一巻満尾した上で、捌き手が自ら添削することを言います。どのように細心に捌いても、出来上って一巻全体を点検すると、思わぬところに差合や表現の重複を発見するもので、さらにそれだけでなく、一句一句も、それぞれ推敲することによって、より完成された作品にすることができます。
それはちょうど、大工が柱を削った時、さらに磨きをかけて、小さい疵を消すようなもので、よく校合のできたものを「鉋目が取れた」などと申します。
一巻の中の作者名を変えるということは、たとえば、普通の合同歌集、あるいは合同句集などでは考えられないことでしょう。和歌や俳句はその一首あるいは一句はそれぞれ個人のもので、その大切な作品を他人のものにすることなど飛んでもないことでしょう。ただ俳諧(連句)は和歌や俳句と違い、一巻の作者は捌き手で、一巻の中の個々の句の作者は、捌き手に協力して、一巻の材料を提供しているのです。だから、一句一句の独自性を主張するよりは、一巻の完成に協力する方が大切で、一巻の完成の為ならば、捌きがいかにきびしい添削をしても、あるいは作者名を都合によって変えようとも、連衆は甘受すべきでありましょう。
このように作者の個性を軽く見るやり方は自我意識の強い近代人には素直に受け取られないでしょう。しかし、個より一座という衆の文芸である俳諧(連句)においては止むを得ない特質であると観念するより外はありません。
この作者の名前を変えるということは、校合の時ばかりでなく、一座興行中でも、捌き人あるいは、連衆の申し出により、行われることがあります。能役者でも歌舞伎役者にしても、普段は近代人でしょうが、一旦、舞台に上れば、近代意識は別にして演技するわけでしょう。だから、俳諧(連句)を作る人も、その時だけは俳諧(連句)のルールに従って下さい。
以上は捌き人が自分の作品を添削する時の考え方です。他人が捌いたものを頼まれて批判評価するのは、点者で、加筆・加朱と言いました。これは細かい添削はしないのが普通です。ましてや、作品中の作者を変えるなど、それこそ飛んでもない話です。このような甘い点者の存在が俳諧を堕落させたことは、ご存じの通りであります。
「猫蓑通信」第20号 平成7(1995)年7月15日刊 より