Q40

一巡への対処

連句の時、一巡の最後の方になると頭の中が真っ白になり、早く出さなければと思うとかえって出来なくなります。いい工夫はないでしょうか。

人によって速吟の方も居られ、遅吟の方も居られ、大方は個人・個人の性格・能カ・才能・感性など、先天的なものによるものでしょうが、それだけではなく、その人の修練によって左右されるところではないでしょうか。

この修練という言葉は、「去来抄」に出てきます。

    綾のねまきにうつる日の影
   泣く泣くも小さき草鞋もとめかね 去来

  この前句が出て、一座の人々は暫く付け悩んでいた。この時、芭蕉先生が「この句は身分の高いご婦人の旅であろう」と言われた。それで私はすぐにこの句を付けた。
 その座に居た坂上好春(貞門の俳人)は、「貴婦人の旅と聞いて、忽ちに句が出来たのは、さすがに蕉門の人々の修練は格別なものがある」と感心した。

この座の去来は別に一巡の最後になっていたわけではないでしょうが、ともかく、俳席で出句に詰り、追いつめられた場合にあった事は同じです。そのような場合、捌きの芭蕉が作句のヒントになるような事を与えたという事も、見習うべきことでしょう。

しかし、連衆にとっては、芭蕉が出したヒントを即座に活かした去来こそ見習うべきで、好春によれば、それは去来(去来をはじめ蕉門の一統)の格別な修練の結果だと言うのです。

修練とはどういうことをするのでしょう。句の修練はいろいろな方法があり、広く言えば行住坐臥、すべて連句修練でないものはありませんが、最も具体的で効果的なものは、暇にまかせて独吟の歌仙を作り続けるという事でしょう。一巻首尾すれば大分自信がつく事でしょうし、五巻・十巻と首尾すれば、もう俳諧の席に出ても、一巡の最後に近づいて頭の中が真っ白になる事もなく、捌きのヒントにも的確に迅速に応ずる事が出来るでしょう。

もっと簡便な方法としては、すくなくとも当日の前に、当季の発句で表六句だけでも作っておく事です。もちろん、作っておいたものをそのまま無理に付けようというのは、ポケットまたは手帳の句と言われ、実感を伴わない句として嫌われますが、すくなくとも付句のヒントにはなるわけで、一巡の最後になっても、頭の中が真っ白になる事はないと思います。

「猫蓑通信」第40号 平成12(2000)年7月15日刊 より