東 明雅の連句 Q&A
すりつけ
俳席では、「これはすりつけだからいい」というようなことがよく言われます。「宮島」――「瀬戸内海」といった地名に地名の付けなどはどうか、「付き過ぎ」ということとは矛盾しないのかなどについてお教えください。
すりつけ「摺付け」とは、去嫌いの関係にある語でも、それを二句続きで出す場合は認めるというものです。ところで、昔は地名といった分類はなく、国名と名所(歌枕)、それに歌に詠まれない所は所名と呼ばれました。これらすべて二句去りです。これらはすりつけで二句続くことができます。
芦丈先生の口伝によれば、「大名所に小名所はつく、先に大きな地名が出ていれば、それから枝のようなものが出る」と教えられました。それによれば、宮島は小地名、瀬戸内海は大地名ですから具合が悪いと考えられますが、芭蕉の作品の中にも、
① 三線借らん不破の関人 重五
道すがら美濃で打ける碁を忘る 芭蕉
(冬の日「初雪の」の巻)
② 舟並べたる松本の春
北の方若狭境に残る雪
(元禄三「引き起す」の巻)
などの例があり、不破の関は美濃にくらべて小地名でしょうし、松本(琵琶湖畔の地名)は若狭にくらべては小地名でしょう。付心次第では、このようなことも可能ですから、宮島――瀬戸内海の場合も、実際にその句がどんなものであったかを知らない以上は、付くか付かないかが判別できません。
さらに、「地名のすりつけ」と「付き過ぎ」との関係ですが、「付き過ぎ」とは、前句と付句との意味や味わいが近すぎることを言います。前句にも地名があり、付句にも地名があって、一見近すぎるように感じられますが、①では、付けはその人の付けであっても、前句の旅人を一所不住の騒客と見て、その囚われぬ心境を付けていて、一概に付け過ぎとは言えぬでしょう。
また②の例では、賑かに湖岸に舟の並ぶ松本(現在大津市)の春、長閑な春色を楽しむ気持が横溢しているのに対して、付句は、湖南から遥かに北の方を見ると、若狭境の山々にはまだ雪が残って、春の遅い北国の暮らしを思いやっており、これも決して「付き過ぎ」とは言えないでしょう。
だから、「地名のすりつけ」があるから、すぐにその付合は「付き過ぎ」と判断することはできません。宮島と瀬戸内海、それぞれの地名が、どのような付心で、結びつけられているのか、そして、どのように表現されているかを知らない限りは判定できないところであります。
「猫蓑通信」第13号 平成5(1993)年10月15日刊 より