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東明雅の連句Q&A
 

 
41・吉岡梅游先生のこと
先生はこれまで色々な方との俳諧交流がおありかと思いますが、なにかエピソードがありましたらお聞かせください。
 

 
今年の八月一日発行「連句協会報」第一一五号に片山多迦夫さんの「ふしぎな文芸」という一文があり、片山さんが昔交流された先輩たちの話が語られている。その中、清水瓢左、吉岡梅游の両先生はともに芦丈門の大先輩である。昭和六十三年まで連句協会顧問として活躍しておられた瓢左先生については皆さんもよくご存じであろうが、同じ年に歿られた梅游先生は、当時、連句界から引退された格好であっただけに、そんな偉い方が居られたのかと、驚かれた方があったのではなかろうか。

私も実は梅游先生には一度もお逢いしたことはなく、ただ、これも片山さんの肝煎で瓢左さんを交えて文音の三吟を三巻作っただけのご縁に過ぎないが、何故そんな事になったのか私なりに説明してみたい。

私は昭和三十六年に芦丈先生の最晩年の弟子となったわけで、当時、生存しておられた先輩には殆んどの方にお目にかかっている。瓢左先生を始め、寄居の石沢無腸翁、同じく鳥塚江南翁、湘南の小泉漲洋翁・四国徳島の一山一海(いちやまいっかい)翁などは、いずれも私を弟か息子みたいに暖かい待遇をして下さった。

ところで、当時の芦丈門の中では、梅游先生の評判は芳しくなく、第一、芦丈先生自身が「梅游は悪達者で困る」と何遍も口にされ(拙著『芦丈翁俳諧聞書』参照)あまり信用しておられなかった。ご本人を知らぬ私はそれらの噂をまる呑みにして、敢て梅游先生をお訪ねしなかったのである。

何故、芦丈先生が梅游先生を疎外されたか、梅游先生が四十年代「連句滅亡論」を唱え、それを公開されたからだという説があるが、元々梅游先生は芦丈先生の子飼いの弟子でなく、若い時から当時俳諧壇の最大権威であった西尾其桃、その弟子で後に無名庵の庵主となった寺崎方堂と極めて深い関係があり、関東でも芦丈先生の兄貴分であった茂木秋香と父子の縁を結び、その縁で高崎の中村竹邨、ひいては芦丈先生との縁も出来たのである。

さらに梅游先生は頭脳明晰、学識深く、書画に堪能、篆刻の玄人はだしの才人であった。

これらの事に対する感情が重なって、挙句の果に皆から疎外されるようになったのであろう。今だから右の事情が推測されるが、当時の私には何も分からなかったまま、人の噂を鵜呑みにして、すばらしい先輩を敬遠したのが口惜しい。梅游先生がこの世に残された唯一の著書『連句・俳句自選集』(昭和六十二年刊)を読むたびに後悔されるこの頃である
 

●「猫蓑通信」第41号 平成12(2000)年10月15日刊 より

 
 
 
 
 
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