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東明雅の連句Q&A
 

 
29・マンネリ化を断つには
連句は日本の優れた文芸であると分かっているつもりでも、実作になってくると色々なマンネリ化が気になります。どのような工夫をしたらよいでしょうか。
 

 
連句でマンネリを避けるには、いろいろな工夫、方法があるでしょうが、「不易流行」を自分の俳諧の根本理念とし、一生を新風の追求に費した芭蕉の芸術や生活は、随分参考になるのではないでしょうか。

この芭蕉の展開については七変説・五変説などもありますが、現在通説となっている三変説によれば、まず第一は、貞享元年(一六八四)の「冬の日」調の確立であります。延宝六年(一六七八)、江戸で俳諧の宗匠をしていた芭蕉は、言語遊戯に終始していた談林調を脱却すべく、居を深川の草庵に移し、簡素な生活の中に、荘子を読み、仏頂和尚について禅を学び、まず、自分を革新することによって、作風を変えようとしました。これが貞享元年(一六八四)の「野ざらし紀行」の旅の途中、名古屋の連衆と巻いた「冬の日」の五歌仙によって、脱俗的・風狂的な世界が確立されたのであります。

その後、元禄二年(一六八九)の半年に及ぶ「おくの細道」の旅で、彼は「不易流行」を開眼、従来の古典的世界と眼前の日常的世界を調和させ、花実兼備の「猿蓑」の優雅な世界を創り出したのでありました。

さらに彼はこの完成された「猿蓑」の世界に満足せず、さらに新しい境地を目指す事になりますが、これは庶民の生活を軽妙な観察で描き出し、そこにかすかな「しおり」を求める「かるみ」の風で、俗語の自由な使用もその特色の一つであります。もともと「かるみ」は「おくの細道」の旅の途中、「古び」の自覚から思い付いたものと言われていますが、元禄七年(一六九四)の「炭俵」、その「梅が香」の巻、「秋の空」の巻などにその特色を見る事が出米ます。

マンネリを断つ事は、過去の自分を否定し、新しく生まれ変る事を意味します。それだけに並々ならぬ努力と痛みが伴なう事は当然でしょう。そのことは和歌・詩・俳句その他文芸一般に共通する事でしょうが、俳諧はそれら個の文芸ではなしに、連衆と共同製作による文芸でありますから、自分独りが生まれ変わっても、十分とは言えません。

その点芭蕉は非情と思える程の処置をしております。「冬の日」・「猿蓑」そして「炭俵」、そこに登場する連衆は殆どダブっておりません。これは旧い弟子共は、次々に変化して行く新しい芭蕉の俳諧についていけなかったというのが実情でしょうが、新しい俳諧を作るには、その一座もマンネリ化しては駄目だという事なのでしょう。
 

●「猫蓑通信」第29号 平成9(1997)年10月15日刊 より

 
 
 
 
 
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