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東明雅の連句Q&A
 

 
25・芭蕉の西鶴観
井原西鶴は連句でも活躍した人のようですが、その魅力はどんなところにあるのでしょうか。また松尾芭蕉は彼についてどんな考え方をしていたのでしょうか。
 

 
西鶴(寛永十九年〜元禄六年)は、十代の半ばで俳諧の道に入り、二十一歳で早くも点者になっております。やがて大阪で西山宗因の軽妙な俳諧が好まれるようになると、寛文十二年、三十二歳の彼は、同志を集めて生玉社で万句興行をし、翌年、「生玉万句」として刊行、これがいわゆる談林俳諧の上方における旗上げとなりました。

彼の新しい俳諧は、従来の貞門俳諧の優美な古典主義のなまぬるい言語遊戯に対して、近世庶民、ことに上方町人社会の活気にみちた世相・風俗を大胆に取り入れたもので、古歌や謡曲を巧みにパロディー化し、奇抜な見立、軽快な詠み口は、ふるい貞門派からは阿蘭陀流と罵られ、非難攻撃の的になったのですが、大阪を中心とする上昇期の町人階級にとっては、はじめて、自分たちの言葉で綴る自分たちの俳諧として、格別に新鮮にかつ魅力的に見えたことでしょう。それ以来忽ちに談林俳諧は貞門俳諧を圧倒してしまいました。

彼の最も得意とした矢数俳諧は、当時大阪に流行した独吟形式に、速吟の軽口という彼の俳諧の資質がうまく適合したわけでした。延宝五年には一日一夜一六〇〇句が、同八年には四〇〇〇句、貞享二年には実に二万三千五百句を首尾して、彼は二万翁と称することになりましたが、この時は、あまりの速吟に記録が追いつかず、巻頭の発句が残っているばかりであります。

松尾芭蕉(正保元年〜元禄七年)は、若い頃、西山宗因を私淑して、延宝五年、江戸に下った宗因と一座したりしましたが、延宝八年、市井の俳諧師の生活を清算して、深川に退隠しました。これはその当時、談林俳諧の放埓が極に達し、付心・付味を無視する疎句化の風潮が起ったのに対する反省と、新しい俳諧への模索を期しての事だったのでしょう。芭蕉はここで、荘子を読み、杜甫・李白、さらには西行・宗祇などを読んで、遂には、物付・心付を越える匂付(余情付)を発見して、俳諧を真に芸術の名に価するものに止揚することができたのであります。

「……或は人情をいふとても、今日のさかしきくまぐままで探り求め、西鶴が浅ましく下れる姿あり。……事は鄙俗に及ぶとも懐しくいひ取るべし」(去来抄)。

この芭蕉の言葉は、「さび」・「しおり」のない西鶴の文学に対する不満を述べたものでありましょう。
 

●「猫蓑通信」第25号 平成8(1996)年10月15日刊 より

 
 
 
 
 
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