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東明雅の連句Q&A
 

 
21・恋句の詠み方
連衆に恋句をお願いしますと、「恋は苦手です」、「あまりしたことがありませんので」と逃げられ苦労することがありますが、恋句はどのように詠めばよいのでしょうか。
 

 
芭蕉は恋句の名人で、すばらしい恋句を多く残しております。たとえば、

  @   宮にめされしうき名はづかし    曽良
     手枕にほそき肱をさし入れて     芭蕉

  A   遊女四五人田舎わたらひ      曽良
     落書に恋しき君が名もありて     芭蕉

  B  さまざまに品かはりたる恋をして   凡兆
      浮世の果は皆小町なり       芭蕉

  C   ふすま掴んで洗ふ油手       嵐蘭
     掛け乞に恋のこヽろを持せばや    芭蕉

  D  上おきの干葉刻むもうはの空     野坡
      馬に出ぬ日は内で恋する      芭蕉

いずれも恋をする男女の姿態・真情が印象深く描かれた名句ですが、それならばこれらはすべて芭蕉の体験にもとづいて作られたのでしょうか。そうでないことは、私が一々証明しないでも納得されるところでしょう。

「恋は苦手です」とか、「あまりしたことがありません」というのは、恋句はすべて自分の体験がなければ作れないという誤解にもとづいているのであって、逆に返せば自分が作った恋句はすべて体験にもとづいていると他人から考えられるだろうと心配して、恋愛経験の豊富な人も、他人から譏られるのを気にして、恋句を作ろうとしないのだと思います。

これには明治以後、俳句の世界が花烏風月の自然を客観的に詠むことに専念し、人情の句・フィクション・主観を詠むことを嫌った風潮の残骸も見られます。

とも角、連句はフィクションであります。芭蕉は源氏物語の中の恋、謡曲の中の恋、あるいは市井の男女の恋からヒントを得てこのようなすばらしい恋句を作り出したのです。皆さんもあらゆる天地間の現象の中に、恋句の手がかりを求めて作るべきでしょう。

ただ、現代の芸術における恋の表現は、次第に露骨となり、ことに映画・テレビ、あるいはビデオなどにおける性の描写には目を蔽いたくなるものがあります。それらにヒントを得て、恋句を作るとき、お上品な恋句ばかりにおさめることは不可能でしょう。

また、時には激しい恋句も必要でしょう。ただ、その時、いかに激しい恋を描くにしても、その表現に芸術性をもたせるべきでしょう。「事は卑俗に及ぶともなつかしく言ひとるべし」と芭蕉は言いました。@・C・Dはそのお手本です。
 

●「猫蓑通信」第21号 平成7(1995)年10月15日刊 より

 
 
 
 
 
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